乙訓寺 春の重要文化財特別公開【十一面観音立像と毘沙門天立像】

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春と秋に公開される重要文化財

乙訓寺重要文化財特別公開の案内

長岡京市にある空海ゆかりのお寺「乙訓寺」には、重要文化財に指定されている2体の仏像があります。

乙訓寺の重要文化財
  • 十一面観音立像(鎌倉時代:1268年)
  • 毘沙門天立像(平安後期)

重要文化財の特別公開は、毎年春と秋に行われるそうです(長岡京市観光協会の情報)。2026年春は4月4日から5月6日までの約1か月間実施されました。秋の日程はまだわかりませんが、同じような期間実施されるものと思われます。

  • 日程:春(4月~5月にかけて)と秋
  • 拝観料:1,000円(通常の入山料は免除)

2体の仏像について詳しく解説した冊子ももらえました

2体の仏像は年数の経過によりさまざまな箇所の劣化が進んでいましたが、令和に入り大規模な保存修理事業が実施されました。

十一面観音立像

秋篠寺から移された十一面観音立像

十一面観音立像は本堂の中で拝観することができます。

乙訓寺本堂
本堂

十一面観音立像は説明によると像高181.8cm、ヒノキの寄木造で制作されています。面白いのはその由来で、1695年に奈良市にある秋篠寺から移されたものであることがわかっています。

乙訓寺は戦国時代、焼失の憂き目に遭っています。その後江戸時代になり将軍綱吉の護持僧であった隆光が乙訓寺の再興に着手しました。その際に十一面観音像を秋篠寺から移設したのです。

寺伝では乙訓寺は「推古天皇が発願、聖徳太子が創建」とされています。出土瓦などからこれは伝承であると考えられますが、太子が創建した際の本尊が「十一面観音」でした。こうした伝承をもとに再興時に十一面観音を迎えたのかもしれません。

造像年代が明確にわかる最古の「一日造立仏」

さらに面白いのは、仏像胎内に残された古文書から明確な造像年代(1268年)と「一日造立仏」であることが判明している点です。

一日造立仏とは

仏像を1日で造立し供養まで行うこと。平安時代後期から鎌倉時代にかけての史料に散見する。「一日造立仏」であることが明らかな像も見つかっており、京都乙訓寺十一面観音像(1268年)・奈良西方寺薬師如来像(1278年)・京都旧燈明寺不空羂索観音像(1308年)の3体が確認されている。※『岩波仏教辞典(第3版)』参照

「一日造立仏」とはその名の通り、仏師が1日で造像から供養までを行う仏像です。日本では残された文書などから確実に一日造立仏であることがわかっている像は3体あり、乙訓寺の像はそのうち最古の像です。

また乙訓寺の十一面観音像は右手に「錫杖」を持つ姿であらわされており、奈良県桜井市にある「長谷寺」の本尊十一面観音像が基本となる「長谷寺式十一面観音像」の形式をとっています。

毘沙門天立像

乙訓寺毘沙門堂
こちらで拝観できました

毘沙門天立像は十一面観音像よりも古く平安時代後期の作であるとされています。

平安後期にふさわしく動きの少ない姿で、荒々しい雰囲気は全くありません。眉をひそめる憂いのある表情から「幽愁の毘沙門天」と呼ばれているそうです。

拝観時はやや距離があったため細かなところまではわかりませんでしたが、いただいた冊子の写真から鮮やかな彩色や文様が残されている(修復された箇所も含む)ことがよくわかりました。

冊子の説明にはこの像の由来が記されていませんでした。おそらく明確になっていないのだと思います。平安後期作となると、戦国期の兵火により乙訓寺が焼失した時期をどう乗り越えたのかが問題になります。この像だけが焼失を免れたとも思えないので、十一面観音像同様どこかから移してきた仏像なのかもしれません。

隆光により定められた寺法に当たる「乙訓寺定」には毘沙門天像の記載があるため、やはり隆光の乙訓寺再興と関連して持ち込まれた可能性が高いと思われます。十一面観音のように由来がはっきり示されていないので、あとは様式論から由来を推定するしかないのかもしれませんが私にはハードルが高いです…。ただ造形の見事さや細部の技術の巧みさから由緒ある仏像であったことは間違いないと思います。

現在東京国立博物館の特別展で公開されています(2026年9月6日まで)

乙訓寺本尊「合体大師像」について

由来は不明だがそれが魅力的でもある

乙訓寺本堂の宮殿には本尊である「八幡弘法合体大師像」が安置されています。

乙訓寺本堂の説明板

乙訓寺の縁起によると、空海が「八幡明神の霊告をうけて合体の像を造」ったとされています。

この像についても由来が不明です。史料上では中世の百科事典的な文献である『塵添壒嚢鈔』にこの像について「八幡神と弘法大師が一体となった尊像」であることが示され「奇異殊勝、言語道断」と評価しており、実際に乙訓寺で合体大師像を見たことがわかる記述があります(平凡社『寺院神社大事典(京都・山城)』参照)。しかしこの記述以外に像の由来を示す史料は見当たらず、造像年代や移入の経緯は不明です。

『塵添壒嚢鈔』は中世の文献ですが、そこには「乙訓寺で見た」ことがはっきり示されています。そうなると毘沙門天像同様戦国期の火災をどう乗り越えたのかがここでも問題になります。この像だけ何とか火災から救い出せて別の場所に安置したのち、隆光による再興に際して復帰させたのか…事実は不明です。しかしそうした謎がより一層乙訓寺の歴史を興味深いものにしていると思います。

色々考えをめぐらせるのが楽しい

合体大師像は拝観できるのか

現時点で乙訓寺の公式ページでは「秘仏」とされており具体的に拝観可能な日時は記されていません。ざっと検索した限りでは「33年に1度」という御開帳の情報もありましたが、実際にそのペースで拝観できるかどうかはわかりませんでした。

今のところ御開帳の予定はなさそうですが、何かの機会やご縁で御開帳することがあるかもしれません。上に書いた『塵添壒嚢鈔』の記述を読んでいるとみたくてたまらなくなるんですよね…。

こればっかりは縁だと思うので少しの希望を持ちながら今後も情報をチェックしたいと思います。

まとめ:興味の尽きない乙訓寺

乙訓寺で実施されていた重要文化財の特別公開について書きました。

像そのもののすばらしさはもちろんですが、空海の時代を経て戦火により荒廃し、そこから復興を遂げた乙訓寺の歴史が2体の仏像から伝わってくるようでした。

仏像の背後にある乙訓寺の歴史を、その謎も含めて味わい楽しむことができました。

以上で終わります。

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乙訓寺について古代史との接点を中心に書いています

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